青と黄色のあいだ

好きなものを好きなだけ

「生まれた時からアルデンテ」平野紗季子

平日は毎日、成城石井のカレーライスを食べられるくらい、ネギトロと味噌汁の組み合わせで済ませられるくらい、食にこだわりのない私は、食に関するエッセイを読むのがとても好きだ。

平野紗季子さんは、そんな私と正反対の位置にいる人間だと思う。

そんな彼女の著書、「生まれた時からアルデンテ」を読んだ。

生まれた時からアルデンテ

生まれた時からアルデンテ

 

 本書の内容はこうだ。

戦慄の1991年生まれこと平野紗季子によるファン待望の著書。生まれた時からアルデンテな平成の食文化を綴った新しい時代の味覚エッセイガイド。世界一のレストランからロイヤルホスト観察日記まで、食を楽しむことへの思いを文章と写真と引用につぐ引用で構成した一冊。小学生時代の赤裸々すぎる日記や、食文化カタログなど特別収録多数。

 文章を読んですぐ驚く。彼女の生まれは私と3年ほどしか違わないのに、この食に対する経験値の差。そして食を表現する時の新鮮な言葉選び。

本書の最初に収録されている、小さい頃からつけているという食日記はとにかくすごい。小学生はこんなに食べ物の味を見分ける力を持っているのか。

途中に挟まれている対談で、子どもの味覚は8歳までに決められる(ようなこと)と書いてある文章にあったように、小さな頃からレストランで出てくる食事の豊かさを知っている彼女は、舌に備えられている味覚分析装置が超優秀だ。

どうしてこんなにも、食を愛せるのだろうか。私には分からないけれど、こう考えれば少しは彼女に近付けるような気がする。

多くの本を読んできた中で、少しずつ本への満足度を決める標準値が決められていく。そしてその標準値とは別に、満足、不満足では判断することのできない、特別な判断基準も設けられていく。

本に対して、私はそれを持っている。けれど、幅広い食を楽しんで生きてこなかった私に、食の判断基準は備わっていない。その判断基準が出来るまでの経験をしていないからだ。

食は人間が生きていく上で欠かせないものだからこそ、楽しみたいという気持ちは私にもある。彼女の食に対する真摯な態度を見習って、今からでも舌の経験値を増やして行こうと思う。

そしてそれと同時に、誰かとの食事を楽しむ姿勢も、鍛えられたらいいものだ。

幸福と丁寧と余裕

常日頃から、人間の幸福と丁寧さは、密接な関係にあると思っている。

例えば土曜日の午前中、目覚ましをかけずに眠り、自然に目が覚めた時、私たちは幸福を感じる。

それは時間に追われることなく、丁寧に睡眠を貪ることが出来ているからではないだろうか。

想像してほしい。

そのまま布団を抜け出して、洗濯機を回し、まずは目覚めのコーヒー一杯を、丁寧に、時間をかけて淹れる。家中にコーヒーの豊かな匂いが漂う。

ソファだか、キッチンに置いてある椅子だかに腰をおろし、熱々のコーヒーをクッと飲み込むと、起きがけの体の中心を温かい液体が通り抜け、お腹の真ん中にぽとんと落ちる。

その一飲みを堪能した後は、ゴクゴクとコップ一杯を飲み干し、そこで「顔、洗ってない」ことに気付く。

空になったカップに水を入れてシンクに置いて洗面所に向かい、そこで休日の表情をしている自分とご対面。顔を触ってコンディションをチェックしていると、洗濯の終わりを告げる音が鳴る。

濡れないように髪をまとめて、ネットでゆっくりと、丁寧に泡を立てる。真っ白でふわふわの泡を見つめていると、顔を洗うという目的から、どれだけ綺麗な泡を立てられるか、ということに目的がシフトしてしまいそうになる。

顔に泡をつけて洗う、といった平日とは違い、休日は泡に顔をつけて洗う感じだ。今この時だけは、煩わしいことなんて何も考えず、ただ目の前にある泡に顔をつけて洗っていく。

そして丁寧に洗い上がった顔に、これまた丁寧にスキンケアを施していく。何かを丁寧に、心ゆくまでやれることの幸せったらない。

 

こうして過ぎていく休日は、外に出かける予定なんてなくても、幸せなのだと思う。出来ればこの幸せの作り方を、休日だけじゃなくて平日にも実践することが出来たなら、どんなにいいだろう。

丁寧に顔を洗う時間は惜しくても、丁寧にコーヒーを淹れたり、洋服にアイロンをかけたり、食器を洗ったりすることだけは、やってみるといいかもしれない。

そして丁寧とは、余裕とも言い換えられる。

今こうしてパソコンに向かって、丁寧に生きることを想像し、文章にしていく丁寧さ、時間の余裕さもまた、幸福に繋がっている。

「ご本、出しときますね?」若林正恭

 本好きが好きな芸人、若林正恭わかばやし・まさやす)さんの著書「ご本、出しときますね?」を読んだ。ずっと読みたかった本だった。

 この本は、テレビで放送していた番組をまとめたもので、数々の名作品を生み出してきた、現代作家との対談を文章で読むことができる。

だいたい、映像を文章にしたものはその面白さが半減してしまうことが多々あるのだけれど、この本に限ってそういうことはない。文章になっても、作家たちの面白さ、若林さんの面白さはそのままだ。

特に好きなのは、西加奈子さんの勢い。本当に声が聞こえてくるかのような文章になっていて、この本が物凄く好きになったし、西加奈子さん、やっぱり好きだなと思える。

この対談の中で若林さんが何度も繰り返すように、作家という人たちは作品の外でもずっと小難しい話をしていて、大変賢くて面白い人間なのかと思いきや、本人たちはそうではないと言うし、接している若林さんも「実際はそうではなかった」と言う。

とは言え、作家が見ている世界というのは少し変わっているなというか、小説を書かない人たちに比べてものを見る視点の数が多いと思う。

そんな作家たちから見ても「クレイジー」な村田沙耶香さんは、この対談でもやっぱりクレイジーで。クレイジーすぎると逆に純粋になるのだなあ。

ダブル中村(中村文則さんと中村航さん)の対談も面白かった。文則さんはだいたい色々なことを気にしている感じの人で(超アバウトに言ってます)、航さんはとてもふわふわとしている。

お互いに「ええ?!」と思うことがありつつも、その違いすぎる点において、二人の間には兄弟のような雰囲気すら漂っている。それもすごく面白い。

私の中で作家と作家は、作品について語りはすれど基本的に仲が悪いものだと思っていたから、こうして作品と作品を対話させるのではなくて、作者と作者、まあ人間と人間として対談していることは、現代だからこその空気感なんだろう。

ただやっぱり誰も彼もが本というもの、小説というもの、言葉というものを愛している雰囲気というのは伝わってきて、読んでいるととても幸せな気持ちになれた。

本当に処方箋のような本になっていますよ。

東京は寂しさを生む街「東京たられば娘」

ドラマ「東京たられば娘」が終わり、やっと見始めた。いま倫子と早坂さんが両想いになったところだ。(まだ最後まで見ていない)

この「東京たられば娘」、全てが終わり、視聴者の感想の中で一番多いのはどんな意見なのだろうか。正直ここまで見て、共感しつつも彼女たちには何度もイラついてきた。この点ではKEYと非常に気が合う。

そもそも、という話をすると、本当にそもそも私自身、いつも塊になっている女子が苦手なのである。なぜなら、イコール一人でいることができない女、イコール寂しさをごまかしていると思えてきてしまうから。ちゃんと寂しさと向き合えとすごく思う。

そしてこの寂しさについてだが、SNSで有名のDJあおいさんは、

「寂しい、と言う人は暇なのだ」

と言っていた。その通りだと思う。

「東京たられば娘」の三人は終始、寂しさを感じている。これだけの人工過密都市で「寂しい」とは何事かと思うが、生まれも育ちも東京にいる私からすると、「東京には何でもあるが何もない」ということは確かである。つまり、東京とは寂しさを生む街なのだ。それは寂しいと毎日嘆きたくもなる。

倫子はかろうじて仕事も頑張ろうとしているし、まともに恋もしようとしていると思うし、(自分から勝負しようとしなかったり、一晩だけの男女の関係があろうとも)良く言えば東京っぽくない。しかし、香と小雪はどうだろうか。

香は過去に「売れなくてお金もないから」と付き合っていた男に別れを告げたものの、再開して芸能界で成功していてコロッと考えを変えて、うまく元の鞘におさまることだけを狙っている。そんなこと、絶対にありえないはずなのに。

「何度も、もう会わない」と決意するけれど、毎回すんなりと元彼の優しい抱擁を拒否できないのは、彼が好きだからではなく、可能性を捨てきれないから。そして東京の寂しさがそうさせる。つまり、香は気は強いが、心はか弱い。

次に小雪は不倫をしている。はっきり言って相手の男・丸井は典型的なクズであり、田中圭はクズの男を演じるのが心底うまい! これは褒めてます。

なぜなら独身のように見せかけて雰囲気を作り、手を出してから結婚していることを明かす。その上で「小雪さんに会えないなんて耐えられない(子犬のような瞳をうるうるさせながら)」なんて言葉を吐く。さらに子供もいて、もうすぐで下の子も生まれる状況であることも隠し、バレたら「だって小雪さんと会えなくなるから…(うるうる)」と開き直る。ここまで徹底しているのは本当にすごい。

でも、親が離婚していて、父親と一緒にお店を切り盛りしているしっかり者の小雪が、こうしたダメ男を好きになってしまって、ずるずると関係を引きずってしまうのも、なんとなく理解できる。将来、一緒になれる可能性がほとんどゼロに近い状態だとしても。そして小雪をこうした心理にさせてしまうのも、東京という場所がひとつの要因であると言えるだろう。地方がどうなのかわからないけれど、東京でそうした男女の関係で悩んでいる人は山ほどいるからね。

この二人の恋愛模様や心の揺らぎ方は、悪い意味で東京っぽい。

「なんでもあるけど、なんにもない」東京で寂しさが生まれ、倫子、香、小雪だけでなく、東京に住む女性のほとんどが、その寂しさに飲まれ視界を悪くし、今にも踏み外して落ちてしまいそうだった穴にすんなりと落ちる。それはもうほとんど呪いに近い。

そしてその穴は、今という時だけを見つめれば本当に居心地の良い穴なのだ。だからKEYのように、地上にいて穴の中を見下ろしてツバを吐いてくる男なんて、悪にしか見えない。でもそうとしか見えないうちは、まだまだ穴の中にいる東京たられば娘たちの視界は悪いままなのだろう。

耳に痛い言葉を投げかけてくるKEYが悪ではなく、穴の中から地上へ自分を引っ張り出してくれる光の道筋に見えてくれば、東京の寂しさの呪いから解かれるまで、あと一歩。東京たられば娘たち、寂しさに飲まれることなく、きちんと向き合う強さを持って生きよう。

ララランドはオラオラ。デミアン・チャゼル監督はドS

アカデミー賞にもノミネートされ、6部門を受賞した映画「LA LA LAND(以下:ララランド)」を公開日に観た。そして観た上でララランドに関する、ポジティブとネガティブな感想も多く読んだ。それで結局、ララランドって何が凄いのだろうか。

ごく普通のストーリー


「ラ・ラ・ランド」本予告

ララランドを観終わって、ある程度熱が冷めた人ならば、ララランドのストーリーがごく普通であることが分かるだろう。

ヒロインであるミアと主人公であるセバスチャンの最初の印象は最悪だった。そのあと偶然に会う機会が増え、お互いに対してネガティブな印象しか持たず、会えば口論をしていた2人だったのに、最終的には恋に落ちてしまうのだ。そしてお互いの夢を追う中ですれ違っていく生活と心…。最後に彼らが手にするのは夢か、恋か。

思い出しながら書き起こしてみても、本当に普通である。普通すぎてびっくりした。もしこのあらすじが本の裏表紙に書いてある文章だとしたら、その本を買うか迷うどころか、面白くなさそうと言って丁寧に本棚に返すだろう。要はそのレベルのストーリーなのだ。

ずば抜けて映像が綺麗、ということでもない

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公開される前から綺麗な画が強調されている映画なだけあり、確かに本編ではいたるところに原色が使用されており、黒だったり灰色だったり、いまいちパッとしない色を日々見ている日本人にとっては、あの鮮やかさは憧れであり、美しい。

実際に、ララランドの席は確かに美しかった。色白のミアが着る服はほとんどが原色だし、漁港のようなところでセバスチャンが1人切なく歌いあげるシーンなんて、この世界にこんなに素敵な風景が実際に存在することに驚いた。

しかし、これらが綺麗すぎる、ということは特になかったように私は思う。

素晴らしさその①「ライアンゴズリングのピアノ」

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映画の中でライアンゴズリング演じるセバスチャンは、ピアニストで、ジャズを愛している。そして夢はジャズの店を開くことである。

そうなると確実にピアノを弾くシーンがあるのだけれど、それをライアンゴズリングは全て自分で弾いている。話によると約3か月間、みっちりとピアノの練習をしたのだそうで、それも弾く必要のあるピアノを全て完璧に仕上げてくるというストイックさ。

俳優で本当に経験があるように見せるために、ある程度レッスンを受けることはよくあることだが、完璧に仕上げるというのはあまり見ない。その猛特訓のかいもあり、ライアンゴズリングのピアノシーンは、リアリティがあって良かった。

素晴らしさその②「映像の長回し

観る人を圧倒するオープニングのシーンでは気づかず、途中どこかのシーンで「あ、ほとんど長回しだ」と気づいたのだけれど、ララランドはほとんどのシーンが長回しである。

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恋人になった2人が踊りながら館内を回り、プラネタリウムで宙に浮かんで踊るシーンなんかも、館内移動はぬるぬるとした長回しで、しかも観客がそのことに気付かないような、自然な視点であるのが素晴らしい。

細かくシーンを繋いでいくのも映画の表現の1つで、ストーリーに合わせれば素晴らしい効果を生むが、ララランドにおいては、長回しが観ている側になんとも言えない感情を作り出させている。

簡潔に言えば、リアリティが与える感動、とでも言えるだろうか。

素晴らしさその③「デミアン・チャゼル監督」

私はもうこの監督が怖くてたまらないよ……。

しかしララランドはこの監督がいなくては成り立たない。監督賞も受賞したしね。

有名作品「セッション」同様、ララランドはラストのシーンが特に素晴らしいと言われている。ラストまでの流れが稚拙でも、ラストで挽回できた、と言われるほどに。

「セッション」ではスパルタおじさんの汚いやり方のおかげで、夢を打ち破られそうになる主人公を描いていたが、ララランドでは夢のおかげで恋を破られる2人を描いた。

ラストのシーンは、オープニングや途中までの物語とリンクしつつも、違う選択をした先の未来の世界を見ることができる。その度に「2人にはこんな未来があった」ということを強制的に思い浮かべさせ、心がグッと詰まる。

その演出や表現は、観客に全てを委ねるのではなく、分からせる、という性格悪いんじゃないか?と思わせるくらい力強い。

ララランドは暴力的

いろいろと書いたけれど、最近は大衆に理解できるように作っている映画も少なくない。その中で「分かるだろオラオラ」ともうほとんど暴力にも近いような絵と演出で、観客を引っ張り良いと言わせる監督の映画はすごい。

正直観た女ともだちは「よく分からないけど楽しい映画だった」と感想を述べた。よく分からないけど楽しいって言わせるのって、純粋にすごいのだ。

ララランドは暴力的だけど、それは美しい暴力で、だからなんか嫌いになれない。好きだ。