読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

青と黄色のあいだ

好きなものを好きなだけ

人間には二種類いる。幸福を享受できる人間と、そうでない人間と

私は前者の人間だと思ってた。なぜなら不幸なんて大嫌いだからだ。過去の不幸に足を引っ張られながら生き続けるのも、まっぴらごめんだ。

だからずっと、前者側の人間だと思ってた。だけど最近、考えを改めた。私はもしかして後者側の人間なのではないかと。

紛れもない幸せに包まれそうになった時、私はどこか“つまらなさ”を感じていた。

「なんでもない日常が一番だ」と言っておきながら、いざ幸せが両手を広げて私を抱きしめようとすると、そこに綻びや、嘘や、悲しみがないかを探してしまう。

そして幸せという布に、とても小さな穴を見つけるや否や、そこに入らない指を思いっきり突っ込み、穴を広げようと力を込める。誰も無視できないくらいの大きな穴になったところで、私は「ほらね」と満足する。「一点の曇りもない幸せなんて、存在するはずがない」と。

ここで私という人間は、不幸を望むシンデレラシンドロームなのかと疑ってしまうが、冒頭でも言った通り、私は不幸なんて大嫌いだ。

それならなぜ、幸せの中に不幸を作ろうとするのか? それは幸せが崩される瞬間が、ただただ怖いからである。

幸せを幸せと受け止めて、そのあと幸せが不幸に侵されることをあらかじめ考えて、幸せの側に不幸を置いておくこと。それで私はやっと幸せの手を握ることができるのだと思う。

不便な生き方だとは思うけれど、そうでもしないと、幸せと共に生きることが本当にできない。

だから人間には二種類いるのだと思う。幸福をまっすぐ受け止めることのできる人間と、幸福の側に不幸を置かないと受け止められない人間と。

東京は寂しさを生む街「東京たられば娘」

ドラマ「東京たられば娘」が終わり、やっと見始めた。いま倫子と早坂さんが両想いになったところだ。(まだ最後まで見ていない)

この「東京たられば娘」、全てが終わり、視聴者の感想の中で一番多いのはどんな意見なのだろうか。正直ここまで見て、共感しつつも彼女たちには何度もイラついてきた。この点ではKEYと非常に気が合う。

そもそも、という話をすると、本当にそもそも私自身、いつも塊になっている女子が苦手なのである。なぜなら、イコール一人でいることができない女、イコール寂しさをごまかしていると思えてきてしまうから。ちゃんと寂しさと向き合えとすごく思う。

そしてこの寂しさについてだが、SNSで有名のDJあおいさんは、

「寂しい、と言う人は暇なのだ」

と言っていた。その通りだと思う。

「東京たられば娘」の三人は終始、寂しさを感じている。これだけの人工過密都市で「寂しい」とは何事かと思うが、生まれも育ちも東京にいる私からすると、「東京には何でもあるが何もない」ということは確かである。つまり、東京とは寂しさを生む街なのだ。それは寂しいと毎日嘆きたくもなる。

倫子はかろうじて仕事も頑張ろうとしているし、まともに恋もしようとしていると思うし、(自分から勝負しようとしなかったり、一晩だけの男女の関係があろうとも)良く言えば東京っぽくない。しかし、香と小雪はどうだろうか。

香は過去に「売れなくてお金もないから」と付き合っていた男に別れを告げたものの、再開して芸能界で成功していてコロッと考えを変えて、うまく元の鞘におさまることだけを狙っている。そんなこと、絶対にありえないはずなのに。

「何度も、もう会わない」と決意するけれど、毎回すんなりと元彼の優しい抱擁を拒否できないのは、彼が好きだからではなく、可能性を捨てきれないから。そして東京の寂しさがそうさせる。つまり、香は気は強いが、心はか弱い。

次に小雪は不倫をしている。はっきり言って相手の男・丸井は典型的なクズであり、田中圭はクズの男を演じるのが心底うまい! これは褒めてます。

なぜなら独身のように見せかけて雰囲気を作り、手を出してから結婚していることを明かす。その上で「小雪さんに会えないなんて耐えられない(子犬のような瞳をうるうるさせながら)」なんて言葉を吐く。さらに子供もいて、もうすぐで下の子も生まれる状況であることも隠し、バレたら「だって小雪さんと会えなくなるから…(うるうる)」と開き直る。ここまで徹底しているのは本当にすごい。

でも、親が離婚していて、父親と一緒にお店を切り盛りしているしっかり者の小雪が、こうしたダメ男を好きになってしまって、ずるずると関係を引きずってしまうのも、なんとなく理解できる。将来、一緒になれる可能性がほとんどゼロに近い状態だとしても。そして小雪をこうした心理にさせてしまうのも、東京という場所がひとつの要因であると言えるだろう。地方がどうなのかわからないけれど、東京でそうした男女の関係で悩んでいる人は山ほどいるからね。

この二人の恋愛模様や心の揺らぎ方は、悪い意味で東京っぽい。

「なんでもあるけど、なんにもない」東京で寂しさが生まれ、倫子、香、小雪だけでなく、東京に住む女性のほとんどが、その寂しさに飲まれ視界を悪くし、今にも踏み外して落ちてしまいそうだった穴にすんなりと落ちる。それはもうほとんど呪いに近い。

そしてその穴は、今という時だけを見つめれば本当に居心地の良い穴なのだ。だからKEYのように、地上にいて穴の中を見下ろしてツバを吐いてくる男なんて、悪にしか見えない。でもそうとしか見えないうちは、まだまだ穴の中にいる東京たられば娘たちの視界は悪いままなのだろう。

耳に痛い言葉を投げかけてくるKEYが悪ではなく、穴の中から地上へ自分を引っ張り出してくれる光の道筋に見えてくれば、東京の寂しさの呪いから解かれるまで、あと一歩。東京たられば娘たち、寂しさに飲まれることなく、きちんと向き合う強さを持って生きよう。

ララランドはオラオラ。デミアン・チャゼル監督はドS

アカデミー賞にもノミネートされ、6部門を受賞した映画「LA LA LAND(以下:ララランド)」を公開日に観た。そして観た上でララランドに関する、ポジティブとネガティブな感想も多く読んだ。それで結局、ララランドって何が凄いのだろうか。

ごく普通のストーリー


「ラ・ラ・ランド」本予告

ララランドを観終わって、ある程度熱が冷めた人ならば、ララランドのストーリーがごく普通であることが分かるだろう。

ヒロインであるミアと主人公であるセバスチャンの最初の印象は最悪だった。そのあと偶然に会う機会が増え、お互いに対してネガティブな印象しか持たず、会えば口論をしていた2人だったのに、最終的には恋に落ちてしまうのだ。そしてお互いの夢を追う中ですれ違っていく生活と心…。最後に彼らが手にするのは夢か、恋か。

思い出しながら書き起こしてみても、本当に普通である。普通すぎてびっくりした。もしこのあらすじが本の裏表紙に書いてある文章だとしたら、その本を買うか迷うどころか、面白くなさそうと言って丁寧に本棚に返すだろう。要はそのレベルのストーリーなのだ。

ずば抜けて映像が綺麗、ということでもない

f:id:amyamam24:20170303141732j:plain

公開される前から綺麗な画が強調されている映画なだけあり、確かに本編ではいたるところに原色が使用されており、黒だったり灰色だったり、いまいちパッとしない色を日々見ている日本人にとっては、あの鮮やかさは憧れであり、美しい。

実際に、ララランドの席は確かに美しかった。色白のミアが着る服はほとんどが原色だし、漁港のようなところでセバスチャンが1人切なく歌いあげるシーンなんて、この世界にこんなに素敵な風景が実際に存在することに驚いた。

しかし、これらが綺麗すぎる、ということは特になかったように私は思う。

素晴らしさその①「ライアンゴズリングのピアノ」

f:id:amyamam24:20170303142202j:plain

映画の中でライアンゴズリング演じるセバスチャンは、ピアニストで、ジャズを愛している。そして夢はジャズの店を開くことである。

そうなると確実にピアノを弾くシーンがあるのだけれど、それをライアンゴズリングは全て自分で弾いている。話によると約3か月間、みっちりとピアノの練習をしたのだそうで、それも弾く必要のあるピアノを全て完璧に仕上げてくるというストイックさ。

俳優で本当に経験があるように見せるために、ある程度レッスンを受けることはよくあることだが、完璧に仕上げるというのはあまり見ない。その猛特訓のかいもあり、ライアンゴズリングのピアノシーンは、リアリティがあって良かった。

素晴らしさその②「映像の長回し

観る人を圧倒するオープニングのシーンでは気づかず、途中どこかのシーンで「あ、ほとんど長回しだ」と気づいたのだけれど、ララランドはほとんどのシーンが長回しである。

f:id:amyamam24:20170303143141j:plain

恋人になった2人が踊りながら館内を回り、プラネタリウムで宙に浮かんで踊るシーンなんかも、館内移動はぬるぬるとした長回しで、しかも観客がそのことに気付かないような、自然な視点であるのが素晴らしい。

細かくシーンを繋いでいくのも映画の表現の1つで、ストーリーに合わせれば素晴らしい効果を生むが、ララランドにおいては、長回しが観ている側になんとも言えない感情を作り出させている。

簡潔に言えば、リアリティが与える感動、とでも言えるだろうか。

素晴らしさその③「デミアン・チャゼル監督」

私はもうこの監督が怖くてたまらないよ……。

しかしララランドはこの監督がいなくては成り立たない。監督賞も受賞したしね。

有名作品「セッション」同様、ララランドはラストのシーンが特に素晴らしいと言われている。ラストまでの流れが稚拙でも、ラストで挽回できた、と言われるほどに。

「セッション」ではスパルタおじさんの汚いやり方のおかげで、夢を打ち破られそうになる主人公を描いていたが、ララランドでは夢のおかげで恋を破られる2人を描いた。

ラストのシーンは、オープニングや途中までの物語とリンクしつつも、違う選択をした先の未来の世界を見ることができる。その度に「2人にはこんな未来があった」ということを強制的に思い浮かべさせ、心がグッと詰まる。

その演出や表現は、観客に全てを委ねるのではなく、分からせる、という性格悪いんじゃないか?と思わせるくらい力強い。

ララランドは暴力的

いろいろと書いたけれど、最近は大衆に理解できるように作っている映画も少なくない。その中で「分かるだろオラオラ」ともうほとんど暴力にも近いような絵と演出で、観客を引っ張り良いと言わせる監督の映画はすごい。

正直観た女ともだちは「よく分からないけど楽しい映画だった」と感想を述べた。よく分からないけど楽しいって言わせるのって、純粋にすごいのだ。

ララランドは暴力的だけど、それは美しい暴力で、だからなんか嫌いになれない。好きだ。

言えなかった言葉の根が腐る

今年も2月が終わろうとしている中で、突然ふっと「このまま一生、生きていくのだろうか」ということが頭の中に思い浮かび、すごくぞっとしています。

先日、友人と2人でお酒を飲んでいる時に、ぼそっと「最近、このままずっと、こうして、今の自分のままで生きていくんだと思うと怖い」とこぼしたら、場が暗くなりました。

そして「もう今の職に魅力を感じない。やりたいことだと思っていたけど、1年働いてみて“これは違う”と思った」続けて言うと、友人はこんなことを言いました。

「半年前くらいの自分がそうだった。でも私はすごく負けず嫌いだから、このまま中途半端な状態で逃げるようにしていなくなるのは嫌だと思った。それに何の貢献もしていない今のまま辞めると“ああ辞めちゃったね”って言われるだけ。辞めるんだったら何か爪痕を残してから辞めたい」と。

この友人は私の同期なのですが、この1年、彼女がいて良かったなと感じることがすごく良くあって、この時も曇っていた視界にひゅっと風を吹かせてくれたように感じました。

私にとって“このままの自分で一生、生きていくことが怖い”という心の不安に対する答えは見つかっていなかったから、誰かに話しても無駄だろうと思っていたのですが、この時ばかりは、自分の中に答えが見つからない場合は、誰かが答えを持っていることもあるのだなと心の底から思い、拙くても言葉にしてみて良かったなと思うことができました。

この時はこうして言葉に出来たけれど、言い止まっていたらどうなっていたんだろうと思うのです。誰かに言いたかった言葉を自分の中にずっと留めておくのは、正直辛く、長い時間をかけなければ消化することはできない。

でも私は今までずっとそれをやってきた気がします。否定されることが本当に嫌いだから、本音を言うことができずに、言わなければいけないこともずっと秘めてきていた。

けれど同期の彼女のように、否定するでもなくかといって全面肯定するでもなく、まっすぐに言葉を述べてくれる人もいることに最近、やっと気付くことが出来て、生きることが楽になって来つつある。

言わなかったことは、根っこがどんどん腐っていく。言えた言葉は綺麗じゃなくても、なにかしらの花を咲かせることだろう。

前までは腐らせることが1番良いと思っていたけれど、腐った根がどんどん溜まっていくと、花が咲く土壌ではなくなっていく。そうなってしまった時、また花が咲くような土壌を作るには、土をひっくり返し、腐った根を全てどかさなければいけない。

1つ1つの根を腐らせることは大したことではないかもしれない。ただ大量に腐った根を自分の手で取り除く時、本当に辛いのはその時だ。

植本一子「家族の最後の日」を読んだ

著書「かなわない」から約1年、植本さんが最近出版した「家族最後の日」を読んだ。「かなわない」はその文章量もすごかったため、だいぶ長い時間をかけて読んだ記憶があるが、「家族最後の日」は3日ほどで読み終えた。 

家族最後の日

「かなわない」から少しの時間が経ち、わたしの想像の中であんなに小さかった植本さんの子どもたちも、文章から感じられるくらいおおきく育ち、それぞれの強い個性がうかがえる。本当に同じ人が書いているのか?と思うほど穏やかで、落ち着いた家族の日常を綴る文章は、母として立ち上がった植本さんの頼もしい姿が思い浮かび、なんだかこちらも母のような気持ちになる。 

「家族最後の日」は植本さんの旦那さんである石田さんに、癌が発覚したことが中心として描かれているが、本当のテーマはやはり本の名前にもなっている家族なのだ。

ここが「かなわない」から本当に変わった部分で、「家族最後の日」でも植本さんは自分の周りで起きたことや、それに対して感じたことを書いているのだが、不思議とそこには石田さんや子どもたち、そして仲の良い知人たちの姿もついてくる。個人としてではなく、家族というコミュニティに身を置く植本さんが見えるのが「家族最後の日」である。

そしてここでいう家族とは、石田さんと子どもたちと植本さん、という家族だけでなく、石田さんと石田さんの親父という家族、植本さんと植本さんの両親という家族も入っている。

ここでわたしは、誰もが結婚すれば家族を2つ持つことになるんだなということに気付いて、なんだかそれを両方ともうまくやっていくことは、わたしには難しいことなんだろうと感じてしまった。ここは植本さんと一緒である。

植本さんの文章を読んでいると、感情の表現というか、感情の出どころをしっかり見つめられているんだなあと感心することが多々あって、いくらでも文章を引用したい気持ちになる。

特に良いなと感じたのは、自分と母との関係性について改めて感じた文章。

こうして辛いことはどうしても母に話してしまいたくなる。というより、母に話すより仕方ない出来事なのだ。

けれど話してなんになるだろう。結局わたしは母に期待してしまっていたのだ。そして母もわたしに期待している。

本文から引っ張ってきていないので(ページが見当たらない)言いたいことがイマイチ伝わらないような気がするが、要するに植本さんは石田さんの病気が発覚する前に母と勝手に絶縁したものの、石田さんがあと少ししか生きられないかもしれないという中で、子育て、仕事、石田さんの看病など、全てが背中にのってくる。その辛さを誰かに打ち明けるとしたら母であるが、結局母に話したところで何もならない。期待していることなど返ってこない。

そんなところから始まり、何度も何度も母と対立してきた自分は、結局どこかで分かり合えるという期待を母にしてしまったのだ、ということに気付く。それは母も同じで「家族だから」といつまでも、いつまでも期待してしまう。でもそれももう終わり。

そのことに気付いたことで、植本さんと母という家族は終わり、そして石田さんと植本さんと子どもたち、という新たな家族が始まった。自分が長年所属してきた家族の終わりが、新たな家族の始まりとなったのである。

終わりの背中には、始まりがついている。とは誰かが言っていた言葉だが、本当にその通りだなと感じさせてくれる本でした。