青と黄色のあいだ

好きなものを好きなだけ

悲しむ

鬼塚ちひろの曲が好きである。

深い悲しみに満ちている曲の数々は、中途半端な幸福に甘んじることなく、どこまでも深く、ひんやりとしていて、逆にもう心地良さを感じられる。

誰にも理解してもらう気のない、彼女の悲しみが、どの曲に詰められている。

しかしどの曲を聴いても分かる。悲しみの量と同じくらいの、愛も一緒に詰められていることに。

彼女の曲から悲しみについて考える時、また悲しみについてふいに考える時、わたしは愛についても考えてしまう。おそらく、悲しみと愛は一緒に存在するものなのだと思う。

「かなしみ」とひらがなで書く時、使える漢字は三つある。悲しみと哀しみと愛しみである。

「かなしみ」に愛が詰まっていると感じた誰かが、「かなしみ」の一つの意味として「愛しみ」を作り、そこに「いとおしい」という意味を与えた。わたしは英語のことは分からないからなんとも言えないが、これは日本ならではの感覚ではないだろうか。

悲しみの背中には愛がある。愛の背中には悲しみがある。

ふれる

ひらがなで「ふれる」と書かれていたら、わたしは真っ先に「触れる」という漢字を思い浮かべる。

多くの人がそうだろう。

人に触れる、物に触れる、心に触れる…。わたしたちが触れられるものは、実体があるものとないもの含め、ものすごくたくさんある。

例えば「人に触れる」。個人的に、わたしは人に触れることがものすごく苦手である。触れられることも、もちろん苦手である。触れた瞬間に、相手の体温がこちらに伝わってくる、あのリアルな温度が、なぜか苦手なのである。

これは、わたしが人と心を交わすことが苦手であるが故だと思われる。人の体に触れることと、人の心に触れることは、ものすごく深い関わりがあることだと思うから。

人に触れること、触れられることが明確に苦手になったのは、中学生の時、反抗期だった気がする。家族と心を交わすのが不自由になった時、肉体的に家族に触れることも苦手になった。

家族以外の人と心を交わすのが不自由になった時、その人たちに触れることも苦手になった。

こうして考えてみると、「触れる」というのは、触れているものの魂に触れることなのかもしれない。そこには確かな実体と、心がある。だから心がある人に触れることは苦手だけれど、わたしから見て心がないと判断されている、動物に触れることはむしろ安心する。

心に触れたら、わたしの心も差し出さなくてはいけないような気がするのだ。人の場合、それを欲している人は多い。心はいつも平等で、交換されるものだから。

動物は複雑な心を持たない。いつも、目の前にあるものだけを見つめていて、過去も未来もない。今しかない。そういう存在である動物の体に触れ、心に触れるのは、本当に楽だ。

しかし、人に触れるの苦手なわたしにも、触れたいと思う人は確実にいる。心を交換し合いたいと思う人は確実にいる。相手がそれを望んでいなくとも。

もっと気軽に人と心を交換し合えるようになれば、もう少し、色々と楽に生きることができるかもしれない。

かなわない/植本一子

名前も、姿も見たことのない、職業すら知らない植本一子さんの本を、衝動的にとは言え手に取り、そして読んだことに何か意味を感じずにはいられない。

何かに迷っている時ほど、本に呼ばれる機会が多い。

三月頭、わたしはなんだか寂しくなって、新宿の紀伊国屋に繰り出した。とにかく一人になりたくなかったのと、誰かを探していたように思う。結局、大勢の人がいるところに出たところで、自分の孤独感を強めただけで、探していた誰かは見つからず。その代わりに『かなわない』を見つけて、すぐに家の最寄り駅に戻り、喫茶店で読みはじめた。

 

かなわない

かなわない

 

 

2011年~2014年上旬までの、一子さんの日々の記録には、隠している部分や、気取っている部分が少しもなく、そして有無を言わせぬ強さがある。それは強すぎて暴力的なほど。

正直、半分までは育児日記。家事と仕事を両立させることの難しさ、夫である石田さんの優しさに頼りつつも、なんとか家族の日々を成り立たせている様子が延々と描かれる。

ここまででも十分に読み応えがあって面白いのだが、後半はさらにスピードをあげ、面白くなる。余力を残していたな?と思うくらい。人が感情で書いている文章に、限界などあるわけないのだけれど、それでも怖いくらいにページをめくる手が止まらない。なんだこれ。

特に2014年の部分は、彼女の日常を客観的に読んでいた読者を惹き込むと同時に、前半の彼女の言動について納得するようなことが書かれている。だが、同時に、彼女は全ての人を裏切る。この裏切りについてはぜひ読んでみてほしい。今でも思い返すと腹立つほどに酷い裏切りであり、夫である石田さんの心の広さも伺える。

日記の合間にいくつか差し込まれている短文の中に、タイトルにもなっている『かなわない』という文章がある。

本音ではない。ただ言いたくて、最後の悪あがきだった。叶わないものに向かって吐き捨てるただの悔し紛れ。 今でもそれぞれの形で、彼も石田さんも、私に向き合い続けてくれている。認めたくなかったものを、やっと認められる気持ちになれた。それを後押ししたのは結局石田さんだった。暗がりの中、涙が出た。居場所は変わらずずっとあるのだ。

石田さんは一子さんの夫でありながら、父親としても機能している。とても凄い人だ。一子さんはずっと、石田さんを真正面から見ることが出来ていなかったと思う。子供のような人だから。それがこの文章で、やっと少しだけ正面から見られるようになっている。

彼に、愛はどんなものだと思うか聞いてみたことがあった。二人で自転車で並走していた時に、ふと思いついた質問だった、彼は少し考えて、私の前に出て走り始めた。そして振り返って私と目が合った。しばらくそうして一緒に走っていた。彼は何度も私がついてきているか確認するように振り返る。そして、「愛はこういうことだよ」と言った。この人にもあの人にも、私は一生敵う気がしない。

一子さんが“敵わない”と思う人たちへの かなわないと、一子さんが望んでいたことが“叶わなかった”、二つの意味がこめられている。 

書く

あらゆるところに文字が溢れていて、見かけるたびに頭の中でその曲線や、直線をなぞっている。一切、崩れていない文字の美しさが好きで、わたしには書けないから憧れて、無意識に何度も何度もなぞってしまう。

仕事柄、というかこの世の仕事のほとんどはパソコンを使用するので、ペンと紙に触れる機会がどんどんとなくなるのだけれど、パソコンで打ち込む文章は、どうしても滑りがちになる。

それはキーボードを通して打ち込む文字に、大した労力も、思考力も使われないからだと思う。

こうして打ち込む文章も、なんとなく上滑りしているように思えて、たまに気持ち悪くなる。でも手書きは厳しい。自分の書く文字が美しくなくて好きじゃないからだ。

最近は、書くことと読むことが現代人には必要だと説かれている本や文章をよく見かけるが、書くことと読むことと、どうしてそんな基本的なことを忘れるのだろうといった感想しか思いつかない。

今年の(多分)三月に発売された、植松一子さんの『かなわない』を読んでいるのだけれど、一子さんは写真家で、日々の出来事やその時に抱いた気持ちをブログに書いている。それが今回書籍として発売されたのだ。

二段構成で、文字が小さく、ぶ厚い。ブログの書籍化とはいえ、なかなかの密度である。というかむしろ、赤裸々に書かれているブログだからこそ、濃厚だ。

「ひとつだけ確実にいえることは、 なにかを『書く』ために、もっとも必要としているのは、『読む』能力だということなのです。」

ブログが面白いと言われるたびに良い文章を書かなくてはなあ、と思った一子さんが手にとった『13日間で「名文」を書けるようになる方法』の中で、一子さんがこれだ、と思った文章だ。

書くと読むは互いを支える行為であることはそうなのだけれど、当てはまる人と、当てはまらない人がいるように思う。

ただブログとはいえど、これだけの文章量の日々の記録をつけられること自体、一子さんにはなにかしら文章の才があると思うのだけれど、一子さん自身は気付いていない。一子さんは気付いていないことが多い気がする。それともあえて見えていないふりをしているのだろうか。

文章は書けば書くほど磨かれていく、とわたしは信じている。キーボードで打ち込む文字は九割が上滑りではあるけれど、たまにキラキラした文章がおりてくるときもあって、そういう時の思考は、意図的に再生は出来ない。意図的に再生できないから、文章を書くのは面白くて、やめられなくもある。

わたしは明日も書くし、生きていく限り、なにかしらを書き続けるはず。というか書いていてほしい。書くことは、それなりにわたしの核となっている部分が大きい。

休む

社会人になってから、休日と平日という言葉に、色がつくようになった。

休日は赤、平日は青だ。なぜこの色なのかは、カレンダーの影響が大きいと思う。

休日と平日という言葉に色を見るようになってから、この配色に違和感も覚えた。

休日は働く人にとって、言葉通り休息日であるにも関わらず、なぜ危険をイメージさせる赤なのだろう。そして怒涛の勢いで過ぎていく平日が、安らぎをイメージさせる青なのだろう。

逆にする必要がある、と思い、試しに紙に逆パターンで一週間を書いてみたところ、このパターンもしっくりとこなかった。赤が増えたぶん、心にかかる負担が増えてしまう感じがした。

そもそもカレンダーの配色にどんな意味があるのか、調べてみた。

休日が赤色という件ですが、
これはなんと世界中のカレンダーで共通しています。
しかし例えばバングラディシュは金が週末扱いで、金が休日です。
この場合は金が赤く表示されています。
中国は完全週休二日で土日が休みなので、カレンダーも土日が赤。

わたしが想像していたよりも、しっかりとした意味がこめられていないようだった。

他にはこんなことも。

赤の色には西欧では創始のニュアンスがあったそうで、
そこが始まりだろうと。

カレンダーは基本的に日曜はじまりであり、その日曜が赤で表示されていることには、もしかしたらこんな意味があるかも、とのこと。

他にもいくつも理由の説明があったが、最も多かったのは「分かりやすいから」だった。それは確かにあるとは思う。

そもそも、「休む」というワードに対して、休日のことを引っ張り出してきたのは、社会人として休日は大切、という普通の考えが、わたしには全くしっくりとこないからである。

最近DJあおいさんのブログを読むようになったのだけれど、仕事とストレスに関する読者からの相談で、彼女はこう答えていた。

仕事のストレスを遊びで発散するな。

仕事のストレスは、仕事でしか発散できない。

キツイ仕事のストレスを、遊びで一時的に発散することはできるのかもしれないが、それでは“仕事のための遊び”と言っても過言ではなくなってしまう。

休日と言いながらも、なんだかんだで仕事のための時間として使っている人が多いのではないかなあと、最近よく考える。

発散のために使われる休日の、なんて悲しいこと。