青と黄色のあいだ

好きなものを好きなだけ

Twitterってなんだったんだろう

5年ほど使っていたTwitterをやめた。アカウントは多い時で5つくらい持っていたけれど、その時に使っていたアカウントはもう全て存在しない。

思えば、中学生の時から、文章を投稿する何かしらのツールを使い続けている。

中学生の時はリアルタイムと呼ばれるツールと、前略プロフィール

高校生の時はリアルタイムと、mixi、そしてTwitter

大学生の時はTwitterFacebook。そして今ははてなブログ。その全てに私は熱中していた。

楽しくて仕方がなかった時期を越え、私の中でなくてはならないものとして存在していた時期を越え、もう必要がなくなった。

そしてこうしていざ、Twitterをやめてみると、なんだったんだろうと思えてきた。

インターネットの世界で、本当の名前と顔も知らない人たちとの交流。その中で実際に会う人もいれば、会わない人もいて、アカウントを消したら突然に交流は途切れる。

もうこういう現代に慣れているから特別感は一切感じなかったけれど、改めてこうして遠ざかってみると、すごいし、不思議なことだなと思う。

SNSをしていなかったら出会うことのない人たちと、何かのきっかけでこうして出会えていることが、本当にとても不思議です。

若い頃にSNSを経験していない世代からすれば、ネットはネットでしかないかもしれないけれど、現代を生きる若者にとっては、SNSでの出会いも、立派な1つの出会い。

そしてどこぞの誰かが言っていたけれど、人と人の繋がりというのは脆そうに見えて案外しぶとい。

アカウントがなくなった今、交流していた人たちと、もう気軽に交流はできないし、もしその人もアカウントを消してしまったら、もう関わる術が無くなるけれど、一度できた繋がりだから、また何かしらの形で関わることができるんだろうなと思います。

Twitterをやめたごときで何だろうと自分でも思うけれど、思い入れのあるアカウントだっただけに、結構さみしいのです。

今日からはインターネットの人たちではなく、リアルな人たちとの関わりをちゃんと大切に育てていこうと思います。

悲しむ

鬼塚ちひろの曲が好きである。

深い悲しみに満ちている曲の数々は、中途半端な幸福に甘んじることなく、どこまでも深く、ひんやりとしていて、逆にもう心地良さを感じられる。

誰にも理解してもらう気のない、彼女の悲しみが、どの曲に詰められている。

しかしどの曲を聴いても分かる。悲しみの量と同じくらいの、愛も一緒に詰められていることに。

彼女の曲から悲しみについて考える時、また悲しみについてふいに考える時、わたしは愛についても考えてしまう。おそらく、悲しみと愛は一緒に存在するものなのだと思う。

「かなしみ」とひらがなで書く時、使える漢字は三つある。悲しみと哀しみと愛しみである。

「かなしみ」に愛が詰まっていると感じた誰かが、「かなしみ」の一つの意味として「愛しみ」を作り、そこに「いとおしい」という意味を与えた。わたしは英語のことは分からないからなんとも言えないが、これは日本ならではの感覚ではないだろうか。

悲しみの背中には愛がある。愛の背中には悲しみがある。

ふれる

ひらがなで「ふれる」と書かれていたら、わたしは真っ先に「触れる」という漢字を思い浮かべる。

多くの人がそうだろう。

人に触れる、物に触れる、心に触れる…。わたしたちが触れられるものは、実体があるものとないもの含め、ものすごくたくさんある。

例えば「人に触れる」。個人的に、わたしは人に触れることがものすごく苦手である。触れられることも、もちろん苦手である。触れた瞬間に、相手の体温がこちらに伝わってくる、あのリアルな温度が、なぜか苦手なのである。

これは、わたしが人と心を交わすことが苦手であるが故だと思われる。人の体に触れることと、人の心に触れることは、ものすごく深い関わりがあることだと思うから。

人に触れること、触れられることが明確に苦手になったのは、中学生の時、反抗期だった気がする。家族と心を交わすのが不自由になった時、肉体的に家族に触れることも苦手になった。

家族以外の人と心を交わすのが不自由になった時、その人たちに触れることも苦手になった。

こうして考えてみると、「触れる」というのは、触れているものの魂に触れることなのかもしれない。そこには確かな実体と、心がある。だから心がある人に触れることは苦手だけれど、わたしから見て心がないと判断されている、動物に触れることはむしろ安心する。

心に触れたら、わたしの心も差し出さなくてはいけないような気がするのだ。人の場合、それを欲している人は多い。心はいつも平等で、交換されるものだから。

動物は複雑な心を持たない。いつも、目の前にあるものだけを見つめていて、過去も未来もない。今しかない。そういう存在である動物の体に触れ、心に触れるのは、本当に楽だ。

しかし、人に触れるの苦手なわたしにも、触れたいと思う人は確実にいる。心を交換し合いたいと思う人は確実にいる。相手がそれを望んでいなくとも。

もっと気軽に人と心を交換し合えるようになれば、もう少し、色々と楽に生きることができるかもしれない。

かなわない/植本一子

名前も、姿も見たことのない、職業すら知らない植本一子さんの本を、衝動的にとは言え手に取り、そして読んだことに何か意味を感じずにはいられない。

何かに迷っている時ほど、本に呼ばれる機会が多い。

三月頭、わたしはなんだか寂しくなって、新宿の紀伊国屋に繰り出した。とにかく一人になりたくなかったのと、誰かを探していたように思う。結局、大勢の人がいるところに出たところで、自分の孤独感を強めただけで、探していた誰かは見つからず。その代わりに『かなわない』を見つけて、すぐに家の最寄り駅に戻り、喫茶店で読みはじめた。

 

かなわない

かなわない

 

 

2011年~2014年上旬までの、一子さんの日々の記録には、隠している部分や、気取っている部分が少しもなく、そして有無を言わせぬ強さがある。それは強すぎて暴力的なほど。

正直、半分までは育児日記。家事と仕事を両立させることの難しさ、夫である石田さんの優しさに頼りつつも、なんとか家族の日々を成り立たせている様子が延々と描かれる。

ここまででも十分に読み応えがあって面白いのだが、後半はさらにスピードをあげ、面白くなる。余力を残していたな?と思うくらい。人が感情で書いている文章に、限界などあるわけないのだけれど、それでも怖いくらいにページをめくる手が止まらない。なんだこれ。

特に2014年の部分は、彼女の日常を客観的に読んでいた読者を惹き込むと同時に、前半の彼女の言動について納得するようなことが書かれている。だが、同時に、彼女は全ての人を裏切る。この裏切りについてはぜひ読んでみてほしい。今でも思い返すと腹立つほどに酷い裏切りであり、夫である石田さんの心の広さも伺える。

日記の合間にいくつか差し込まれている短文の中に、タイトルにもなっている『かなわない』という文章がある。

本音ではない。ただ言いたくて、最後の悪あがきだった。叶わないものに向かって吐き捨てるただの悔し紛れ。 今でもそれぞれの形で、彼も石田さんも、私に向き合い続けてくれている。認めたくなかったものを、やっと認められる気持ちになれた。それを後押ししたのは結局石田さんだった。暗がりの中、涙が出た。居場所は変わらずずっとあるのだ。

石田さんは一子さんの夫でありながら、父親としても機能している。とても凄い人だ。一子さんはずっと、石田さんを真正面から見ることが出来ていなかったと思う。子供のような人だから。それがこの文章で、やっと少しだけ正面から見られるようになっている。

彼に、愛はどんなものだと思うか聞いてみたことがあった。二人で自転車で並走していた時に、ふと思いついた質問だった、彼は少し考えて、私の前に出て走り始めた。そして振り返って私と目が合った。しばらくそうして一緒に走っていた。彼は何度も私がついてきているか確認するように振り返る。そして、「愛はこういうことだよ」と言った。この人にもあの人にも、私は一生敵う気がしない。

一子さんが“敵わない”と思う人たちへの かなわないと、一子さんが望んでいたことが“叶わなかった”、二つの意味がこめられている。 

書く

あらゆるところに文字が溢れていて、見かけるたびに頭の中でその曲線や、直線をなぞっている。一切、崩れていない文字の美しさが好きで、わたしには書けないから憧れて、無意識に何度も何度もなぞってしまう。

仕事柄、というかこの世の仕事のほとんどはパソコンを使用するので、ペンと紙に触れる機会がどんどんとなくなるのだけれど、パソコンで打ち込む文章は、どうしても滑りがちになる。

それはキーボードを通して打ち込む文字に、大した労力も、思考力も使われないからだと思う。

こうして打ち込む文章も、なんとなく上滑りしているように思えて、たまに気持ち悪くなる。でも手書きは厳しい。自分の書く文字が美しくなくて好きじゃないからだ。

最近は、書くことと読むことが現代人には必要だと説かれている本や文章をよく見かけるが、書くことと読むことと、どうしてそんな基本的なことを忘れるのだろうといった感想しか思いつかない。

今年の(多分)三月に発売された、植松一子さんの『かなわない』を読んでいるのだけれど、一子さんは写真家で、日々の出来事やその時に抱いた気持ちをブログに書いている。それが今回書籍として発売されたのだ。

二段構成で、文字が小さく、ぶ厚い。ブログの書籍化とはいえ、なかなかの密度である。というかむしろ、赤裸々に書かれているブログだからこそ、濃厚だ。

「ひとつだけ確実にいえることは、 なにかを『書く』ために、もっとも必要としているのは、『読む』能力だということなのです。」

ブログが面白いと言われるたびに良い文章を書かなくてはなあ、と思った一子さんが手にとった『13日間で「名文」を書けるようになる方法』の中で、一子さんがこれだ、と思った文章だ。

書くと読むは互いを支える行為であることはそうなのだけれど、当てはまる人と、当てはまらない人がいるように思う。

ただブログとはいえど、これだけの文章量の日々の記録をつけられること自体、一子さんにはなにかしら文章の才があると思うのだけれど、一子さん自身は気付いていない。一子さんは気付いていないことが多い気がする。それともあえて見えていないふりをしているのだろうか。

文章は書けば書くほど磨かれていく、とわたしは信じている。キーボードで打ち込む文字は九割が上滑りではあるけれど、たまにキラキラした文章がおりてくるときもあって、そういう時の思考は、意図的に再生は出来ない。意図的に再生できないから、文章を書くのは面白くて、やめられなくもある。

わたしは明日も書くし、生きていく限り、なにかしらを書き続けるはず。というか書いていてほしい。書くことは、それなりにわたしの核となっている部分が大きい。