青と黄色のあいだ

好きなものを好きなだけ

「生きてるだけで、愛」本谷有希子

いま私が最も好きな作家、本谷有希子。2000年に「劇団、本谷有希子」を創設するなどして、劇作家・演出家としても活動している。

作家としての代表作は、佐藤江梨子主演で映画化もされた「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」があり、そして今年2016年には「異類婚姻譚」という作品で芥川賞を受賞した。「コンビニ人間」で騒がれている村田沙耶香女史と同じくらい、注目されるべき作家である。

以前、「江利子と絶対 本谷有希子文学大全集」を読んだ時からだいぶ時間をあけ、少し前に「異類婚姻譚」を読んだのだが、この作品は本谷有希子が描く狂気はそのままに、激しさに落ち着きがある作品で、どうした本谷有希子、と少し思っていた。激しさで言えば「コンビニ人間」のラストが勝つだろう。

それで今回、2006年に発売された「生きてるだけで、愛」を読んだのだけれど、これこそが今の私が求めているものであり、昔の私が見ていたものだった。2006年、私が中学1年生だった頃か。

 

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)

 

 さてあらすじ。

寧子(やすこ)は、鬱による過眠症で、恋人が仕事に行って1人になった部屋で懇々と眠り続ける毎日を送っていた。誰に会うでもなく、恋人である津奈木(つなき)と抱き合うでもない体は、もう3日も汚れを洗い落としていない。躁と鬱を繰り返し、「あたしってなんでこんな生きてるだけで疲れるのかなぁ」と思いながら、とてもつまらない人間である津奈木の、腫れものを触るかのような、力の抜けた対応にイラつき、つい喧嘩腰になってしまう。あたしが力一杯ぶつかっていくように、あんたもあたしに力一杯ぶつかってきなさいよ、という心の叫びが冬の寒空の下、やっと吐き出すことができて、寧子の思いはやっと津奈木の心を動かし、2人を繋ぎ合わせたかに見えた。これを恋愛小説と呼べるのか?

 私が読んだ本谷有希子の作品は全て"ぶっ飛んでいる"といった表現がぴったりくる。

主人公の彼女たちは、本当に自分のことで精一杯で、自分が持つ最大限の力を持って周りを巻き込みながら進んで(?)いく。

けれどここで間違えてほしくないのは、彼女たちが「自分しか見えていない人間」ではないことで、彼女たちは私から見れば何もかも見えていて、でも自分をうまくコントロールすることの出来ない、不器用すぎる人間なだけだ。

だから彼女たちがとにかく周りに迷惑をかけ、人の心に波風を立てていても、怒りや呆れといった感情は抱くことがなく、むしろその不器用さ加減に"愛しさ"を抱くこともしばしば。

それは今回読んだ「生きてるだけで、愛」の主人公である寧子に対して、かなり強く感じられた。頑張りたいけど、頑張れない。人に迷惑をかけているのも知っているが、どうしてもうまく出来ない。

寧子がこういう不器用な人間になった原因は、その真面目さにある。真面目すぎたのだと私は思う。

今の時代、真面目であることは美徳とされつつも、陰で馬鹿にされる対象になることも多々ある。少しくらい真面目でないことは、バランス感覚のある"良い人間"として評価される。

でも、そんな真面目であるがゆえに馬鹿にされがちな人間たちは、好きで真面目をやっているわけではなく、やはり不器用だからどうしても真面目になってしまうのだ。

こうして書いていると、やはり彼女たちは十分愛しい対象あたると実感する。だから「生きてるだけで、愛」なのだ。

真面目な彼女たちだからこそ、真面目がすぎてぶっ飛んだ後も、ぶっ飛んだ人間すらも真面目にやりきる。本当に、本当に不器用すぎる。

世の中の不器用さんたち、あなたたちは生きているだけで愛しい対象なのだよ。みんなまとめて、本谷有希子に救われろ。

"死ぬほど愛する記憶になりたい"

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公開されるのを楽しみに待っていた「アズミ・ハルコは行方不明」が12月3日(土)に公開された。

キャストは主演に蒼井優、サブヒロインに高畑充希。監督は「スイートプールサイド」「ワンダフルワールドエンド」「アフロ田中」「私たちのハァハァ」などを手掛けてきた松居大悟だ。

キャストには期待していたけれど、監督には不安を抱いていた。その予感は見事的中したと思う。

7/29(金)公開『アズミ・ハルコは行方不明』予告編

突如、街中に拡散されたグラフィティ・アートは「MISSING」と書かれた安曇春子の顔だった。アラサーで独身・恋人もいない安曇春子は、実家で両親と認知症の祖母と暮らしている。家では祖母の世話をする母の悲痛な怒号がとび、会社では社長と専務の心ないセクハラ三昧。そんな中、同級生だった蘇我と再会し男女の中になるが、2人の中はなかなかうまくいかず。そして蘇我がかつて春子の親友だった新婚のひとみと不倫していることを知り、春子は行方不明になる…。そんな春子の失踪がきっかけとなり交差する2つのいたずらが辿り着く先は?10代、20代、30代の日本に生きる女性たちに捧げる女性讃歌ともなる一作。

主演の蒼井優は、日常を生きる平凡な女性を演じるのがとてもうまい。かつて見た「

百万円と苦虫女」も、夢も目的も特にない女が百万円貯めるごとに新たな街に移っていく、という話だっが、全てがごく自然だった。

その彼女の自然な演技が、本作でも遺憾なく発揮されていたと思う。

そんな蒼井優に反して、サブヒロインである高畑充希の演技には、今まで演じてきた役からは(特にとと姉ちゃん)想像できないくらい"頭も尻も軽い女"だっただけに、力が入っていた。アラサーである春子と、成人式を迎えたばかりの愛菜(あいな)のエネルギッシュさをちゃんと示したかったのかもしれない。

アラサーの春子、成人したての愛菜ときて、10代の枠では「少女ギャング団」と呼ばれる女子高生集団が、大人や男に復讐する女たちとして描かれる。が、彼女たちはほとんど出てこない。素性も明かされないし、少女ギャング団になった理由も映画の中では知ることはできない。ただ男に何らかの恨みを持つ集団、として街の脅威となっている。

映画全体を通して、女性と男性の関係性が描かれるのだけれど、それぞれの年代によってリアルな関係性がしっかりと描かれているところは、男性は気付かないかもしれないけれど、女性のほとんどが共感するところだろう。

一言、「青春」と語るには物足りないほど、女性の悔しさ、怒り、幸せ、人生、たくさんの要素が詰まっている映画だった。

映画を観る上で、10代、20代、30代の女性たちの物語は、別物として観るのをオススメする。全てが繋がっていると思って観ると、頭が混乱してしまうので。

 

そして今回、主題歌はチャットモンチーが書き下ろした「消えない星」が使われている。


チャットモンチー 『消えない星』

これが上映が始まる前の劇場でずーっと流れていたのだけれど、本当に良い曲なのだ。この曲だけで、この映画の良さも分かるくらい。映画終わりに繰り返し聴いていると、上映中は理解しきれなかった映画の内容が、歌詞とメロディーによって整理されていく感じがした。

わたしを愛する時間をあげたい
わたしより1秒長生きして
死ぬほど愛する記憶になりたい
あの世もこの世も同じように
強がりのわたしと 空の上で

この部分が映画とリンクしているように私には思えた。お気に入り。 

ウォーキングデッド シーズン1〜6を振り返る

ウォーキングデッド シーズン6をやっと見終わった。JCOMオンデマンドの配信がシーズン5で止まってから早3か月、TSUTAYAにでも借りに行くしかないかと考えていたら、突然シーズン6の配信が始まった。

24日から各動画配信サービスでリアルタイム配信が始まるらしいので、その直前でシーズン1〜6を振り返る。

シーズン1


【FOX】※完全ネタバレ※「ウォーキング・デッド」シーズン1おさらい

全てはここから始まった。はじめのこの流れがバイオハザードに似ている。そしてやっぱりこの時のリックはわりと清潔だし(年齢的にも)若い。ダリルやグレンも。若いし、当然だけどまだウォーカーに慣れていなくて、ひどく頼りない顔つき。

正直このシーズン1は見なくてもいい、というのが私の意見。なぜなら話数も少ないし、このシーズンは登場人物の自己紹介的と、世界の状態の解説を5話かけてしているだけに他ならないから。

ただシーズン6を見終わってから、シーズン1を振り返ってみると、生き残ってる人が本当少なくて、なんで皆死んじゃったんだよ…という非常に切ない気持ちになる。

 

シーズン2


【FOX】※完全ネタバレ※「ウォーキング・デッド」シーズン2おさらい

シーズン2はファンが多いと思う。かくいう私もその1人。シーズン2で、それぞれがグッと強くなり、ウォーカーが恐ろしいのはもちろんだけれど、それよりももっと恐ろしいのは生きている人間だった、ということに登場人物たちも、視聴者も気付く。

再三言われているけれど、本当にただのゾンビ映画と思うなかれ。最強のヒューマンドラマですよ。

シーズン2はとにかく観ているのが辛くて仕方ないくらいに、毎回何かが起こる。ただここで辛いことをいくつも乗り越えたからこそ、シーズン6まで生きる彼らがいると思うと、人間はすごい、素晴らしい一面もやはりあるのだなと考えさせらざるを得ない。

 

シーズン3


【FOX】※完全ネタバレ※「ウォーキング・デッド」シーズン3おさらい

シーズン3では、シーズン6まで活きる「住処を持つ」という形式ができる。生きる人間にとって、やはり家を持つということは必要不可欠なんだよね。しかしこの住処があるせいで、衣食住を求めて互いを追い詰める殺し合いが今後絶えないことになる。住処を捨てられたら楽だけれど、必ずしも皆が自分で身を守る力を持っているわけじゃないから(女や子どもは特に)、住処は少しでも安心して暮らすためには必須。

そしてシーズン3では、死にゆく世界で新たに生み出される「生の存在」を、ローリの死を対価に得る。自分ひとりが生きていくのに精一杯な世界で、子どもを産むというのは、本当に覚悟のいることで、その覚悟には自分たちで新世界を切り開いていく、という強い想いが伺えて、感動した。人間は何度でもやり直せるのね。

 

シーズン4


【FOX】※完全ネタバレ※「ウォーキング・デッド」シーズン4おさらい

シーズン4は、人間の愚かさが前面に出ているシーズンだった。こんな世界で数少ない生き残りなのに、それでも人は奪い合い、殺し合うんだね。シーズン2で感じた、ウォーカーよりも生きている人間の方が恐ろしい、ということを改めて思い出させられて、人間が嫌になる。

人間の数がどんなに少なくなろうと、全員で安心して手を繋ぎあうことは不可能なんだ。

 

シーズン5


【FOX】※完全ネタバレ※「ウォーキング・デッド」シーズン5おさらい

そしてシーズン5。ここらで、リックたちがプロの殺し屋に見えてくる。音を立てずにナイフで首や頭を突く姿に、みんな強くなったなあという気持ちを超えて、手練れすぎだろ、と少し笑える。

あとこの振り返りムービーを見て思ったけれど、今までずっと攻撃される側だったリックたちが、攻撃を仕掛ける側になってきている。この世界では受け手側でいる限り永遠にリスクにさらされる、ということだよね。変わっていかなくちゃ生き延びることはできない。

シーズン5に限らず、これまでも何度か人間に期待したくなるような、太陽の光が雲間から一瞬差し込むのだけれど、光は即座に消え、ことごとく毎度どしゃ降りになる。

期待しては裏切られ、もう信じないと誓うけれど、また期待して裏切られる。非常に心が揺れるシーズン5。

 

シーズン6


【FOX】※完全ネタバレ※「ウォーキング・デッド」シーズン6おさらい

一旦、ここまでのおさらいしよう!がシーズン6。小学生のテストで言うとシーズン1〜5までが小テストで、シーズン6はまとめのテストって感じ。

ここまで生き延びてきた同士の考えの違いによる対立、無闇に殺し合う人間の愚かさ、やはり物語の始まりであるウォーカーの恐ろしさ、生きている人間を殺さなければいけないことに対する限界、期待と裏切り。とにかくてんこ盛りで、息をつく暇もない。

シーズン6は、シーズン2のようにグッとくる場面も多く、何度も見返したくなる。

 

シーズン7


【FOX】「ウォーキング・デッド」シーズン7予告編

そして24日からリアルタイム配信されるシーズン7に繋がるのですが、予告編の緊張感がすごいですね…。見るのがすごくしんどそう。

このシーズン7の最初の方で、主要メンバーである仲間が誰かひとりいなくなるらしいので、本当に辛い。誰も死なないでほしいよー!

なんにせよ、配信が待ち遠しくて仕方ない。

永い言い訳、原作と映画ではかなり印象が違った

映画「永い言い訳」を観ました。ずっと公開が待ち遠しかった映画だったので、期待も大きく、胸を膨らませ劇場に入ったわたしは、頭上にはてなマークを浮かべながら、逃げるようにして劇場を出ました。

全編通して、盛り上がりは非常に少ない。特報であらかじめ記憶していたユキオが叫ぶシーンも、全体を通してみればとても滑らかで、起伏の小さな山だった。

ところどころグッと胸に詰まるシーンがあるのは、西川監督の言葉選びの良さじゃないかなと思う。

映画という非日常が許される芸術の中で、永い言い訳はあまりにも日常的すぎて、面白味にかけていて、理解が容易い。

正直、ほとんどの人が面白くない映画だったと思うと同時に、確実にひとつ、何か得られるものがあったのではないか。

原作では「愛すべき時に、愛することを怠ったことの、代償は小さくない」と表現されていた場面は、「自分を愛してくれる人を、見くびったり、貶めたりしちゃいけない」と、映画の中では全く違う言葉で表現されていました。

本木雅弘がその台詞を言うシーンは、本木雅弘が本当に何かを失い、失ってあいた穴に振り回された挙句、自然に紡ぎ出された言葉のようで、西川監督の脚本の力と、本木雅弘の演技力が、かなり高レベルのものなのだなということが分かる。

そもそも、映画と演技があれほどまでに自然な作りで、日常的だと思わせられているところからして、高レベルなのだけれど。

結局、永い言い訳を観て思ったのは、これ映画っていうよりドキュメンタリーなんじゃないかなということ。

どこにでもありふれた物語で、感動の展開が先にあるという予測を裏切る、普通のドキュメンタリー。

そう考えてみたら、そもそも原作もフィクションであって、ノンフィクションだったのかもしれないなあ。

悲しむ

鬼塚ちひろの曲が好きである。

深い悲しみに満ちている曲の数々は、中途半端な幸福に甘んじることなく、どこまでも深く、ひんやりとしていて、逆にもう心地良さを感じられる。

誰にも理解してもらう気のない、彼女の悲しみが、どの曲に詰められている。

しかしどの曲を聴いても分かる。悲しみの量と同じくらいの、愛も一緒に詰められていることに。

彼女の曲から悲しみについて考える時、また悲しみについてふいに考える時、わたしは愛についても考えてしまう。おそらく、悲しみと愛は一緒に存在するものなのだと思う。

「かなしみ」とひらがなで書く時、使える漢字は三つある。悲しみと哀しみと愛しみである。

「かなしみ」に愛が詰まっていると感じた誰かが、「かなしみ」の一つの意味として「愛しみ」を作り、そこに「いとおしい」という意味を与えた。わたしは英語のことは分からないからなんとも言えないが、これは日本ならではの感覚ではないだろうか。

悲しみの背中には愛がある。愛の背中には悲しみがある。