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青と黄色のあいだ

好きなものを好きなだけ

悲しみの葬式

お話

かたくて白い衿や、場にそぐわず変な光沢を持つ黒いネクタイ、そして鼻を近付けると防虫剤の匂いがするスーツに、頬を伝って顎のあたりで悲しみの分だけ大きく育った涙が落ちて染みこむのを見た時、目の奥でぎりぎりとどまっていたわたしの涙が視界までぐわっと押し寄せて、世界を一瞬で水の中へと沈めてしまった。

たった数粒だけ落とされた涙は、わたしが今まで見てきた涙の中で数少ない、絶対的に必要な涙だと思えただけに、それを目撃してしまったわたしの心は大きな衝撃を受けた。それはあの涙を見た時の気持ちとこわいくらいに酷似していた。

 

記憶の中のわたしはおそらく五歳。

チューリップやサクラのアップリケがつけられた、まるでてるてる坊主のようなやけに目立つ色のスモックを着て、器用な母がキツめに結った長いおさげ髪を唯一信用できるともだちのように、片手に一つずつ握っている。

わたしは不機嫌と不安の間で感情を揺らしながら、園児たちが走り回る音と叫び声が響き渡るとてもせまい園内で立ち尽くし、目の前でしゃがみこみ泣いている子の、右回りのつむじを見つめていた。

きっともうすぐ大人が数人とぶようにしてやってきて彼女とわたしを囲み、そして泣いている彼女にではなく、わたしに「何をしたの?」と、わたしが原因で彼女が泣いたと決めつけて、とがった声で聞くだろう。

でもそれにわたしは何も答えることができない。わたしが見た時、彼女はもうすでに一人で泣いていたのだ。

わたしはその涙に吸い寄せられるようにして、彼女の前に立ち、そして見ていただけだった。

湯気みたいにじとっと体に貼りつく空気漂う園内で、かたく握ったにぎりこぶしのように体を丸めた彼女の周りの空気だけが違った。

他の園児が横を走り抜けても気にする様子もなく泣き続ける彼女の涙は、他人に見せつけるためのものではなかったからだ。

大人に心配してもらうつもりも、ともだちに慰めてもらうつもりもない。一切の干渉を許していない涙で、そしておそらく彼女の中で重要な意味を持つ涙だった。

どれくらいの時間そうしていたのかは分からないが、やがて予想どおり数人の大人がやってきて、わたしと彼女は別々の部屋に連れていかれ、それぞれに事情を聞かれたが、やはりわたしは何も答えることが出来なかった。

彼女も何も話さなかったらしく大人たちはみじめなくらい困惑していたが、母が迎えにくるのを待っている間、さっき彼女が泣いていた場所を教室のドアを開けて見てみると、彼女はまたそこにいて、膝にのせた本のページをさっきまで顔にあてていた小さな手で、気持ちの良いリズムでめくっていた。

下を向いて本を読む彼女の横顔は、あんなに泣いていたとは思えないほど普通で、わたしはその横顔から、ああ、なにかをきちんと終わらせるための涙だったんだな、ということを、五歳の頼りない頭で判断した。

その後も彼女が何度か泣いている姿を見たが、そのどれもがただ流されているだけの涙だったから、あの時の涙がさらにわたしの中で特別なものになってしまった。きっとそれは彼女以上に。

 

父は数粒だけ涙を落とすと数回強くまばたきをしてから、白く綺麗なハンカチでさっと目と涙の跡を拭った。そのハンカチは今朝、わたしが丁寧にアイロンをかけた、母のお気に入りだったハンカチだ。

母の涙や汗をぬぐってきたハンカチが、今度は父の涙をその身に受けている。それはまるで、父と母が手を繋いでいるみたいに、わたしには思えた。

手にしていた献花を、お棺で眠る母の顔の横にそっと添え、母の手を頬にあてるようにしてもう一度ハンカチで涙を拭い、ぎゅっと両手で握りしめてから、ハンカチもお棺の中に入れる。その父の一連の作業は淡泊に思えたが、とても美しい光景だった。

そんな父の様子に、歳も性別も全く違うちいさな彼女の姿が重なる。誰に見せたり、慰めたりしてもらうためじゃない、自分ひとりだけの悲しみ。そしてその悲しみを終わらせるために流される涙。

お棺が閉められ、霊柩車によって火葬場まで運ばれる。霊柩車の後ろをついて走る車を運転する父の手は小刻みにふるえ、横顔は強張っていた。

一時間前後かかる火葬を待つため、二人だけでは広すぎて落ち着かない控え室のソファに腰をおろすと、体がずしっと重くなった気がした。

対面したソファに座っている父もそれは同じのようで、たいして座りごこちの良くないソファに、全体重以上のものを重そうに預けている。

気力と体力を少しでも回復させるかのようにしばらくそうしていると、猛烈にお腹が空いてきたが、母の葬式で悲しいのにお腹が空くなんて、と控え室に準備してあったペットボトルの緑茶をごくごくと飲んで胃にためて自分を誤魔化そうとした。

緑茶は適度に冷たく、悲しみに痛む喉を癒すように優しく通りすぎ、泣いて体温のあがった体を静めてくれた。

父はかわらず、だんまりだ。ふとももの上に両肘をついて、顔を両手で覆っている。はじめて見る父のつむじが右回りでなく、頭のてっぺん真ん中に円のようにあるつむじだったのにわたしはなぜか安堵して、体の空気を抜くようにして鼻から息を吐くと、部屋に一つだけある窓を見た。

今朝、起きてカーテンを開けたとき、外は冬びよりで、わたしはとても複雑な気持ちになった。葬式なのに晴れている。けれど葬式の日に雨というのもまた複雑で、晴れにしても雨にしても、そして曇りでも、母が死んで納得する天気などないのだということを思った。

何もすることがなくてそのままぼうっと窓の外を見ていると、公園にある像のように全く動かなかった父が顔をあげ、机の上のペットボトルのふたを開けて手にしたが、ペットボトルは少し持ちあがったところで父の手から滑り、緑茶を大量にこぼしながら床に落下した。

驚いて二人して立ち上がったが一足遅く、父のズボンは緑茶でびしょびしょになり、床には水たまりが出来た。

「これじゃ父さん、おもらししたみたいだな……」

濡れたズボンの股を見ながらそう呟く父に、わたしは鞄から取り出したハンカチを渡しながら、聞いた。

「お母さんのハンカチ、持っておかなくて本当によかったの」

母の分身のようだったあのハンカチ。何年も使っていたために模様が限りなく薄くなって、母の手みたいにやわらかだったあのハンカチ。

手渡したハンカチで懸命にズボンの濡れを拭き、そのままソファも拭くと、中身を全て床にぶちまけたペットボトルを拾い、また腰をおろした。

昨日の夜、父は「母さんのハンカチにアイロンをかけておいてくれ」と言い、「なんで」と聞くわたしに「お棺にいれるから」と答えた。

てっきり母の形見としてとっておくものかと思っていただけにその言葉は衝撃的で、本当はその時に理由を聞きたかったのだけれど、もし納得の出来ない理由だったら父のことを責めてしまいそうで、お棺に入れてしまうまで聞くのはやめておこうと思っていたのだ。

「うん」

手の中にある緑茶に濡れたハンカチを見つめながら父は頷いた。

「あれは、父さんが母さんにプレゼントしたものだから、父さんや瑞穂が持っておくものじゃない。母さんのものだから、母さんに返した」

そう話す声はいがらっぽくて、また涙を流すのかと思ったが、意外にも父の目は乾いていた。

その様子がまたちいさな彼女と重なり、もう父の中で母を悲しむことはあの数粒の涙できちんと終わったのだということが分かった。きっと父はもう、母のお棺の前で見せたような涙を流すことはないのだろう。

そうして泣いたことは父の中で特別な記憶として残る。しかしそれ以上にわたしの中で特別な涙として記憶されていることを父は知らぬままだ。自分の涙が他の誰かの中で大切な記憶として刻まれたことを知らぬまま、ちいさな彼女のように生きていく。

そのことにわたしはさみしさを感じてつい涙が出そうになったが、すんでのところでぐっと堪え、「床、拭かなくちゃね」と棒のようになっていた足の感覚を無理に起こして控え室を出た。

数歩あるいたところで一気に世界が水の中に沈み、歪んだ。誰とも共有されることのない悲しみを思って、わたしはしゃがみこみ、壁に背中を預けてあの日の小さな彼女のように気がすむまで泣き続けた。