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青と黄色のあいだ

好きなものを好きなだけ

円になる

日常

掃除をしようと思って、クローゼットを開けた。中にしまってある掃除機を取り出すために。

クローゼットは部屋の外にあって、もちろんその空間に冷房は効いていないから、むわっと暑い。

クローゼットを正面に、背後に渦巻くらせん状の階段の途中にある窓から、夏の日差しが直接せなかに当たって、それもまた暑い。

暑いけど、夏だとは感じなかった。

代わりに、開けたクローゼットの中から漂う匂いに、わたしは夏が来たことを、嗅覚なのかどこの感覚なのか分からないけど、知った。夏が来てた。それもいつかの夏だ。

二十年と少しを生きてきた途中で、わたしは何かを夏と認識して、それを基準に毎年7月~9月くらいの間を夏だと思うようになった。

わたしが「来た」と感じたいつかの夏は、その基準の夏で、多分その基準の夏は、この家に住み始めてからはじめての夏のことだと思う。

夏がきた感覚と同じように、冬がきた、と思うタイミングがあって、それはリビングにある二つの大きな窓から、かもめが飛んでいる姿を見られた時。

「あっ」と自然に声が出て、寒いから窓は開けずに、窓に両手とおでこをくっつけて、大群で空を飛ぶかもめをただ見る。冬がきたなあと思う。

それはわたしが初めてこの家に来た時が冬で、まだ家具も何もない、絨毯しか敷かれていない広い部屋から、外を飛び回るかもめを見てしまったからだと思う。冬とかもめ、よく合う組み合わせ。

このとき、家族全員でブームになっていた、中島美嘉の「雪の華」が流れても、「あ、もう冬なんだ」と思う。それは実際にいまが冬でなくたって、冬がきたような気持ちになるから、もう完全にわたしの頭か、心かに刻まれてしまっている。

年を重ねるたび、こうやって小さな頃の記憶が引っ張られてくる機会が多くなったように感じるのはわたしだけなのだろうか。

全く関係のないように見えるものでも、違う方向から見てみたら「あっ」と思うことがよくあるようになった。そのたびに、懐かしい気持ちになるやら、悲しい気持ちになるやらで、大変な思いをする。

中学生の時にすきだった男の子と行けなくなったプールは、実際プールがあるところではなくて、外から見える受付を見るだけで切なくなるし、小学生の時はじめて親から買ってもらって今でも使っているデジタル時計は、時計単体では意味をなさない。時計を置いていた場所と周囲の色も一緒に思い出さないと、その時計じゃないのだ。

…って書いていて自分でも思うけど、わたしの話は関連するものへとずるずるずれていって、真っすぐな線じゃなくて波線でも、いずれ最初の話しに行き着く感がある。

単体で存在しているものってわたしの中ではひとつもなくて、ぜんぶ関わりがあるから、話をしているとあれもこれもと思い出して、どんどんずれていって、スタートが遥か遠くになっていく。なっていく……。

これは小学生の時から自覚済です。というより、小学生の時に担任だった先生に「話がどんどんずれていくね」と指摘されてから、ずっと分かっていることです。

でも直そうと思ったことはないし、直そうと思ったところで直せないし、これはこれで楽しい。どんなに線を辿っていっても、終わることがないのは正直とても、楽しいことだと思う。