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青と黄色のあいだ

好きなものを好きなだけ

花のベッドでひるねして

吉本ばななさんの本は、わたしの中で「いつでも読める本」としてカテゴライズされているので、そういった意味では、「読もう」という意思がしっかりないと、読む機会が全くない本ではある。

 

吉本ばななさんと、わたしとの関係性を振り返ると、話は五年前くらいにさかのぼる。

 

わたしは当時高校三年生で、受験期だった。そんな時に新しくやってきた国語の教諭が本が好きな人で、中でも「よしもとばななが好きだ」と言ったのだ。そのとき、黒板に書かれた文字ごと、記憶している。

 

その時、わたしは「よしもとばなな」のことは知っていたし、著作も有名なものなら読んでいた。ハマっていた時期があったのだ。でも特別「すきだ」と意識したことがなかったので、すきだという教諭のことが不思議だった。

 

この教諭はこの後わたしの受験の手伝いをしてくれたり、よしもとばななをしっかりと意識させてくれたり、会わずして今のわたしはいなかっただろう、重要な人物なのだけれど、話は吉本ばななさんに戻る。

 

いつでも読める、ということは悪く言えばいつまでも読まない可能性がある、ともいうことで、そのあと彼女の作品からだいぶ長いこと離れることになる、が、今わたしはまた吉本ばななさんに会ってしまった。あー悔しい。

 

花のベッドでひるねして

 

 

この『花のベッドでひるねして』がとにかく良かった。

 

何が良いというと、具体的には言えないのだけれど、吉本ばななさんの著作全体として漂っている「やさしさ」が、この作品ではかなり強く香ってる。

 

極端に優しいのだ。優しすぎる人ってたまに怖かったりするのだけれど、この極端な優しさの中には、その怖さもちゃんと入っていて、だからこそ読んでいて不安な気持ちになりつつも、母が近くにいる時の安心という気持ちのような、大丈夫っていう強さもあったりする。

 

詳しくはぜひ読んでほしいのだけれど、この本の中には「んん!」という一文が結構あり、その全てが浄化作用のある、とにかく優しい言葉なのだけれど、この本、吉本ばななさんがお父様を亡くした時に書かれた本だとか。そう聞けば、この本全体に漂っている空気とか、優しさの強い香りだとかは、とても納得がいく。

 

なにか苦しいことがあった時、人は自然と自分を癒す言葉を探そうとしてしまうと思うのだよね。それがたいていの人にとっては音楽であると私は思うのだけれど、自分で強い言葉を生み出せる人(作家とか、作詞家とか、言葉に携わる仕事を持つ人)は、言葉を受け取る側よりも、自分を癒す言葉に出会いづらいというのがあると思う。

 

そういう人は自分で言葉を探しに行くのが一番なのだけれど、この本がまさに。吉本ばななさんが自分で、自分の心を癒してくれる言葉を探しながら書いていると感じた。というか絶対にそう!(笑)

 

読むのにそう時間も、体力も使わないけれど、あとがきまでしっかり読んだ後は、ちょっと心の中にぽっかりとした穴があく感じがしました。多分、この本を書き終わっても、苦しみは少ししか癒されなかったんだろうな、という。大切な人が亡くなっているのだから、当たり前だけれど。

 

あとがきで、吉本ばななさんはこんなことを書いています。

 

この小説は、私が書いてきた小説の中でもしかしたらもっとも悲しいものかもしれないと思う。

 

そしてもっともさりげない作品でもあり、そんなことを意図していなかったのにきらきらしたものが読後に残る気がする。

 

この小説こそが永く暗い闇を照らす光であってほしい。

 

 「一生忘れられない、小さいけれど大きな作品になった、そう思う。」

 

読後のきらきらを得られるのは、もう少し後かな。またわたしの人生が永く暗い闇に覆われた時、この本のことを思い出して、読み返すことになるのだろうな。