青と黄色のあいだ

好きなものを好きなだけ

眠る

昨日読んだ若松さんの『生きていくうえで、かけがえのないこと』の25のテーマに、私も挑戦。

これが最後の文章になるかもしれない、と思いながら書けば、なにか変わるのだろうか。

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「眠る」と聞くと一年前のこの時期を思い出す。なにかをしなければいけない時間以外は、全て眠りに費やしていた。

人は眠ることで記憶を整理するというけれど、その時の私の眠りは自分を癒すための眠りであった。しかし、体を癒すというよりも、心を癒すための眠りであったから、どれくらい眠れば癒えて、今どの程度まで癒えているのかが見当もつかなかった。

結局、眠っても眠っても、眠りが満たされることはなかったのだから、眠りが直接的に心を癒すことはないのだろう。

癒すために必要な時間を眠りに費やすことによって、起きた状態で癒すよりも、体感的に早く、癒えただけにすぎない。

そのことを示すかのように、九月から数か月間の記憶は、通常の日常生活を送るよりもさらに断片的にしか覚えていない。

眠りは人が弱っている時はこうしてポジティブに働くものかもしれないけれど、通常よりも時間が早く過ぎていくように感じられる、というネガティブな面もある、ということを考えると少し怖くなり、果たして毎日習慣的に眠りにつくことが私にとって正解なのか、ということも考えてしまう。

最近になって「朝起きて働きに出ていつの間にか夜で家に帰り眠りまた朝が来る」ことの怖さを色々な人から聞いているからなおさらだ。

その怖さは習慣、慣れによるものであるだろう。生まれてから十八年、人によれば二十年まで、日々は新しいことで満ち溢れている。そしてそれ以降はすでに知っていることで構成された毎日である、と思っている人の多いこと。

多くのところで「今日と明日は違う一日だ」と言われていて、そのことに多くの人が納得しているはずなのに、なぜか今日も明日も明後日も一緒で不安だとみんな言う。

眠ることが一時的な死であれば、死ぬ前の自分と、死んだ後の自分が違い、それぞれ違う自分が過ごす一日も、もちろん違うものになるはず。

一日を眠りで終わらせる時、「今日の自分は死に、」一日を眠りから目覚めて始める時、「新しい自分が生まれた」と意識すれば、目に映るものすべてに興味を持って一日を過ごすことも可能かもしれない。