青と黄色のあいだ

好きなものを好きなだけ

食べる

17歳のカルテ」という映画を観たことがあるだろうか。心に障害を抱えた少女たちの物語である。

その中で印象的な話を一つ。

デイジーは人前で食事をする姿を一切見せなかった。かと言って食事をしていないわけではない。デイジーの体は人並みにふっくらとしていた。

精神科では個室または二人一室が与えられているのだが、デイジーは長く入院しているために個室を与えられていた。個室の扉には、もちろん鍵もかけられる。

ある日デイジーの父親が持ってきた、デイジーの大好物の食べ物が部屋に入ったまま皿すらも出てこないことに気付いたアンジー演じるリサが、デイジーの隙をついて部屋に入り込み、ベッドにかけられているシーツをめくった。

するとそこにはデイジーの部屋に入ったまま出てこなかった食べ物たちの残骸が隠されていた。

デイジーは叫ぶ。「わたしにとって食事は排泄も同様。そんな汚いもの誰にも見せられない」と。

食べることと排泄は一見、違うように考えられているが、本当は一緒なのかもしれない、と思わせられる印象的な話である。

最近では、食べることがより身近に感じられるようになってきた。自分に選択の自由があるからかもしれないが、年齢を重ねていることが大きな要因のように思える。

十代の頃は、食事は体を作るためのもの、としての意識が強かった。もちろん今も食事は体を作っていくためのものでもあるが、もう私の体はほとんど出来上がっている。なので、今の私の食事はエネルギー補給としての食事、という言い方が一番近い。

そしてこのエネルギー補給としての食事が始まってから、食べるものは全て体に影響を与えている、ということを実感している。

こうして思い出すのは、小さい頃、誰もが一度は言われるであろう台詞。

「食事とは、命をいただくということです」

二十二歳のこの体は、十代に比べて明らかに、体感として、この台詞を感じられるようになった。命とは、肉や魚のみならず、食事として口に入るすべてのものの、命であると。