青と黄色のあいだ

好きなものを好きなだけ

出す

単純に「出す」と聞くと、自然と自分が得るのではなく、誰かに提供する、ということが思い浮かぶ。

誰かに何かを提供する、相手に何かを差し出す、与える。それらは一見、差し出す側は何も得られず、損をしているような感覚に襲われる。

例えば愛情だってそうだ。

はじめ、人の心には愛情が溢れている。それは文字通り、心の器におさまりきらないほどの愛情である。

溢れた分は人にあげる。なぜならあげても、まだ心に愛情が残るからだ。自分にも残って、相手にも渡るなら、人は相手に無条件で与えることが出来るだろう。

しかし愛情は、もちろん無限にあるわけではない。愛情は何かしらの心のアクションがあって作られるものであり、それは愛情をもらった相手によって与えられるアクションがなければ、いずれ枯れてしまう。

そして枯れてしまう直前になって、与えている相手は自分の損を感じる。与えているのに、与えられていない、と怒り出す人もいれば、悲しくなる人もいるはずだ。

前までは、こういうことは少なかったかと思う。“こういうこと”というのは、与える側と、与えられる側が完全に決まってしまうこと。前まで、少なくともわたしが小学生だった頃は、ほとんどの人が与える側にもなり、与えられる側にもなっていた。

でも今はみな、余裕がないためか、与えられっぱなしで、与える側になる人が少ないように感じられる。悲しいことに。

電車の中で周りの動きを気にせずに、ずっと手元の機器に集中している人たちを見て、自分は与えられている側だけになっていないか、余裕をなくしてはいないか、そんなことをたまに考えて、自分は与える側が多いかもしれないということに気付いて、少し悲しくなって、傷つく。