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青と黄色のあいだ

好きなものを好きなだけ

書く

あらゆるところに文字が溢れていて、見かけるたびに頭の中でその曲線や、直線をなぞっている。一切、崩れていない文字の美しさが好きで、わたしには書けないから憧れて、無意識に何度も何度もなぞってしまう。

仕事柄、というかこの世の仕事のほとんどはパソコンを使用するので、ペンと紙に触れる機会がどんどんとなくなるのだけれど、パソコンで打ち込む文章は、どうしても滑りがちになる。

それはキーボードを通して打ち込む文字に、大した労力も、思考力も使われないからだと思う。

こうして打ち込む文章も、なんとなく上滑りしているように思えて、たまに気持ち悪くなる。でも手書きは厳しい。自分の書く文字が美しくなくて好きじゃないからだ。

最近は、書くことと読むことが現代人には必要だと説かれている本や文章をよく見かけるが、書くことと読むことと、どうしてそんな基本的なことを忘れるのだろうといった感想しか思いつかない。

今年の(多分)三月に発売された、植松一子さんの『かなわない』を読んでいるのだけれど、一子さんは写真家で、日々の出来事やその時に抱いた気持ちをブログに書いている。それが今回書籍として発売されたのだ。

二段構成で、文字が小さく、ぶ厚い。ブログの書籍化とはいえ、なかなかの密度である。というかむしろ、赤裸々に書かれているブログだからこそ、濃厚だ。

「ひとつだけ確実にいえることは、 なにかを『書く』ために、もっとも必要としているのは、『読む』能力だということなのです。」

ブログが面白いと言われるたびに良い文章を書かなくてはなあ、と思った一子さんが手にとった『13日間で「名文」を書けるようになる方法』の中で、一子さんがこれだ、と思った文章だ。

書くと読むは互いを支える行為であることはそうなのだけれど、当てはまる人と、当てはまらない人がいるように思う。

ただブログとはいえど、これだけの文章量の日々の記録をつけられること自体、一子さんにはなにかしら文章の才があると思うのだけれど、一子さん自身は気付いていない。一子さんは気付いていないことが多い気がする。それともあえて見えていないふりをしているのだろうか。

文章は書けば書くほど磨かれていく、とわたしは信じている。キーボードで打ち込む文字は九割が上滑りではあるけれど、たまにキラキラした文章がおりてくるときもあって、そういう時の思考は、意図的に再生は出来ない。意図的に再生できないから、文章を書くのは面白くて、やめられなくもある。

わたしは明日も書くし、生きていく限り、なにかしらを書き続けるはず。というか書いていてほしい。書くことは、それなりにわたしの核となっている部分が大きい。