ララランドはオラオラ。デミアン・チャゼル監督はドS
アカデミー賞にもノミネートされ、6部門を受賞した映画「LA LA LAND(以下:ララランド)」を公開日に観た。そして観た上でララランドに関する、ポジティブとネガティブな感想も多く読んだ。それで結局、ララランドって何が凄いのだろうか。
ごく普通のストーリー
ララランドを観終わって、ある程度熱が冷めた人ならば、ララランドのストーリーがごく普通であることが分かるだろう。
ヒロインであるミアと主人公であるセバスチャンの最初の印象は最悪だった。そのあと偶然に会う機会が増え、お互いに対してネガティブな印象しか持たず、会えば口論をしていた2人だったのに、最終的には恋に落ちてしまうのだ。そしてお互いの夢を追う中ですれ違っていく生活と心…。最後に彼らが手にするのは夢か、恋か。
思い出しながら書き起こしてみても、本当に普通である。普通すぎてびっくりした。もしこのあらすじが本の裏表紙に書いてある文章だとしたら、その本を買うか迷うどころか、面白くなさそうと言って丁寧に本棚に返すだろう。要はそのレベルのストーリーなのだ。
ずば抜けて映像が綺麗、ということでもない
公開される前から綺麗な画が強調されている映画なだけあり、確かに本編ではいたるところに原色が使用されており、黒だったり灰色だったり、いまいちパッとしない色を日々見ている日本人にとっては、あの鮮やかさは憧れであり、美しい。
実際に、ララランドの席は確かに美しかった。色白のミアが着る服はほとんどが原色だし、漁港のようなところでセバスチャンが1人切なく歌いあげるシーンなんて、この世界にこんなに素敵な風景が実際に存在することに驚いた。
しかし、これらが綺麗すぎる、ということは特になかったように私は思う。
素晴らしさその①「ライアンゴズリングのピアノ」
映画の中でライアンゴズリング演じるセバスチャンは、ピアニストで、ジャズを愛している。そして夢はジャズの店を開くことである。
そうなると確実にピアノを弾くシーンがあるのだけれど、それをライアンゴズリングは全て自分で弾いている。話によると約3か月間、みっちりとピアノの練習をしたのだそうで、それも弾く必要のあるピアノを全て完璧に仕上げてくるというストイックさ。
俳優で本当に経験があるように見せるために、ある程度レッスンを受けることはよくあることだが、完璧に仕上げるというのはあまり見ない。その猛特訓のかいもあり、ライアンゴズリングのピアノシーンは、リアリティがあって良かった。
素晴らしさその②「映像の長回し」
観る人を圧倒するオープニングのシーンでは気づかず、途中どこかのシーンで「あ、ほとんど長回しだ」と気づいたのだけれど、ララランドはほとんどのシーンが長回しである。
恋人になった2人が踊りながら館内を回り、プラネタリウムで宙に浮かんで踊るシーンなんかも、館内移動はぬるぬるとした長回しで、しかも観客がそのことに気付かないような、自然な視点であるのが素晴らしい。
細かくシーンを繋いでいくのも映画の表現の1つで、ストーリーに合わせれば素晴らしい効果を生むが、ララランドにおいては、長回しが観ている側になんとも言えない感情を作り出させている。
簡潔に言えば、リアリティが与える感動、とでも言えるだろうか。
素晴らしさその③「デミアン・チャゼル監督」
私はもうこの監督が怖くてたまらないよ……。
しかしララランドはこの監督がいなくては成り立たない。監督賞も受賞したしね。
有名作品「セッション」同様、ララランドはラストのシーンが特に素晴らしいと言われている。ラストまでの流れが稚拙でも、ラストで挽回できた、と言われるほどに。
「セッション」ではスパルタおじさんの汚いやり方のおかげで、夢を打ち破られそうになる主人公を描いていたが、ララランドでは夢のおかげで恋を破られる2人を描いた。
ラストのシーンは、オープニングや途中までの物語とリンクしつつも、違う選択をした先の未来の世界を見ることができる。その度に「2人にはこんな未来があった」ということを強制的に思い浮かべさせ、心がグッと詰まる。
その演出や表現は、観客に全てを委ねるのではなく、分からせる、という性格悪いんじゃないか?と思わせるくらい力強い。
ララランドは暴力的
いろいろと書いたけれど、最近は大衆に理解できるように作っている映画も少なくない。その中で「分かるだろオラオラ」ともうほとんど暴力にも近いような絵と演出で、観客を引っ張り良いと言わせる監督の映画はすごい。
正直観た女ともだちは「よく分からないけど楽しい映画だった」と感想を述べた。よく分からないけど楽しいって言わせるのって、純粋にすごいのだ。
ララランドは暴力的だけど、それは美しい暴力で、だからなんか嫌いになれない。好きだ。